『なぜ戦争は伝わりやすく、平和は伝わりにいくいのか』を読み、コミュニケーションについて考えた

今宵もペア読書。もう何度目か忘れてしまったが、ペア読書は捗る。

今回はいつものメンバーとはまた違った友人たちとやってみました。ペア読は多種多様なバックグラウンドを持つ人とやるとより効果的だったりするので、色々な友人とやると良い。

そもそも30分という短い時間のなかで、本全体を隅々まで細かく理解するのは難しい。 そりゃそうだ。それはペア読の目的ともかけ離れている。

各自の興味に基づいて読む箇所が分散し、それぞれの知識/経験が反映された感想/意見を共有しあい、集合知により学び合う、それこそがペア読の真髄だ。

ペア読をするとこの話題になることが多いが、ペア読書マッチングはありだと思う。 コーヒーミーティングのノリの、ライトなマッチングサービス。(今の若者はコーヒーミーティングを知らないかもしれない。)

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話を戻します。

今回は、 『なぜ戦争は伝わりやすく、平和は伝わりにいくいのか』を拝読しました。

この本は、PRやコミュニケーションを勉強しているという友達からの推薦でした。

自分じゃ手に取らないであろう本を読むきっかけになるのもペア読書のメリットなのです。

さて、タイトルにある「なぜ戦争は伝わりやすく、平和は伝わりにいくいのか」、そのヒントはコミュニケーションのずれにあるという。

コミュニケーションにおいて「伝える」と「伝わる」の違いは、文字の違いは一文字であれど、根本的に大きな違いがある。

多分、頭のよい君はこの真実をよく知っている。大人になれば理解すべきことではあるが、その事実に向き合えてない人もちらほらいる。

また、戦争と平和をイメージしてみよ、と著者いう。Google 画像検索をしてみると歴然だが、戦争にまつわるキーワードはとても具体的。火や戦車、武装集団、爆弾、鉄砲など、とても具体的だ。

一方で、平和を検索すると、海や空、花など、とても漠然とした写真が並ぶ。平和の定義は人それぞれであるし、どこかふわっとしている。

つまり、人によって前提の定義が違うため、ミスコミュニケーションになってしまっているのだ。

私達の暮らす社会において、結論までの論理的な正しさを「プレゼン」しあっても、どちらも正しい可能性がある異常、むしろ「争い」を助長することになりかねない。つまり、「伝わらない」ということだ。大事なことは、「結論のすり合わせ」ではなく、相手の前提(出発点)を見極めて、相手と自分の「前提をすり合わせる」こと。それこそが「コミュニケーション」ということなのである。

AならばB、BならばC、CならばDと、A→B→C…→Zと最終的に結論Zにつながるとき、それは論理的に正しい説明といえる。この説明(=プレゼンテーション)にも、一つだけ論理的ではない部分がある。そう、スタート地点。

どこからも矢印のないAだけが、コミュニケーションを考える上で最も重要。

そして厄介なのは、このAは人によって全く違うということ。

著者はそれを情緒と呼んでいた。つまりどんな人に育てられ、どんな経験をしてきて、どんなものに影響を受けてきたかだ。その人を形成している価値観そのものといえる。

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このように、コミュニケーション論からはじまり、権力者がどうやって戦争を主導するか、さらにはメディアがどう後押ししてしまっているか、など、戦争のキモチが作られていく過程を紐解いていく。 その後、平和教育や、戦争と平和に関するジレンマと続いていく。

まとめ

この本を手にとったとき、「伝えること」と「伝わること」の違いから考察するセクションがだいぶ心に残った。

僕はアーティストが大好きで、アーティストを支援することもライフワークになっているのだけど、アーティストは往々にして「伝えること」を重視する傾向にあると思う。それがアートだからだ。決して万人に伝わらなくてもいい、伝えることによって伝わった人だけファンになってくれればいい。 一方でビジネスでは、「伝わること」が前提。クリエイターとアーティストの違いはそこにあるのではないか。

ビジネス視点で見ると、そのギャップに苦しむことが多い。 世の中がアートシンキングへと移りつつ今日このごろ、この分野はもっと深ぼっていきたいと感じた。